レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2015年9月


2015年9月27日(日)  幕屋を立てること、信仰を「立てる」こと
  牧師 坂元 俊郎

 今日は出エジプト記35章を学びます。神の前に独りで立つモーセは再度十戒を与えられ、更に幕屋と捧げ物について主より言葉を受けます。

1)幕屋建設の細かな指示

 主は実に丁寧に細部に渡って幕屋建築の言葉を語ります。捧げ物については実にカラフルな指定があります。また幕屋についても垂れ幕、掟の箱、留金など細かな指定を行います。私たちが聖書を読む場合このような個所は飛ばして読んでしまいます。面倒くさいのです。しかし幕屋は神と会う場です。教会堂はお金や予算が優先されますので安易で安価なものとなりがちですが、教会建設は決してそういう視点を第一とすべきではないことが分かります。

2)捧げる者とは

 第一に「進んで心から捧げようとする者」と言う表現が4回繰り返されます。幕屋の建設や捧げ物は主への誠の献身と喜び、強制ではなく自主的であることが示されています。これはアロンが金の子牛を作った時とは反対の状況です。イスラエルの民とは神と自分との関係を意識して捧げたことが分かり ます。また「心に知恵のある者」を集めたとあります。「知恵」は人の知恵ではなく、神の知恵です。学歴があるとか、身分が良いとか、単に知識があるということではなく、信仰的な思慮深さや配慮深さと言うことなのです。神は自主的で神の配慮を体得している者を求めておられるのです。

3)献納物は「神の聖の体験」

  イスラエルの民は様々な献納物を持ち寄ります。聖書の用語解説では「イスラエルの民はこれらの捧げ物を備えることによって神を礼拝すると共に神の聖性に対する鋭い感覚を養い、罪の清めを希求し、神と交わることの喜びを学んだ」と記されています。献納物は感謝の表現のみではなく、神の聖なる性格を学ぶものでもあったのです。神の聖さを知り、神の聖による喜びを体得するものでもありました。私たちの献金、奉仕、祈り、委員会や会活動、賛美や諸活動は神の聖なる人格に触れるものかが問われています。


2015年9月20日(日)  2度目の契約
  牧師 坂元 俊郎

 モーセは1度十戒の板を激しく怒って破壊してしまいます。それでも主は忍耐深く、モーセに語りかけ再度十戒を授けて下さいます。

1)神の前に独りで立つ(34:1〜4)

 主はモーセに独りで主の前に出るようにとモーセに語り、人を伴うこと、羊もつれて来ることを禁じます。モーセはたった一人で主の前に立ちます。(出エ33:1〜4)。私たちは主の前に一人です。信仰生活を生きるとは主の前に一人で立つことです。キルケゴールと言うキリスト教哲学者は主の前に立つ信仰者を「単独者」と呼びました。自分の人生は主の前の一人として開始されるのです。あなたは主の前に立っていますか?

2)罪と罰(34:4〜9)

 主はモーセに自分を再度紹介します。最後の紹介は「罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」です。主は罪については罰して末期の代まで問うのです。聖書の信仰は罪には必ず罰が伴うことを語ります。罰は傲慢な者を悔い改めさせる教育的な役目、主の聖を示す主権的な効力、また完全に滅ぼす強い主の意思を示す役割があります。しかし罰と裁きは神の独り子イエス・キリストの上に現された「神の悲愛」に示されます。人の罪に対する罰をその独り子の上に下されたのです。これは主が人を罪から救う神の愛なのです。

3)祭司としてのモーセ(34:9)

 モーセは主の前で祈ります。 「主よ、わたしたちの中にあって進んでください。」と主の同行を祈ります。「わたしたちの罪と過ちを赦してください」と民の罪を赦して下さるように執り成します。「あなたの嗣業として受け入れてください」と民が主の祝福を受け継ぐ民となるように祈ります。モーセはイスラエルの民と主との間の仲介役として働きます。モーセはイエス様の前例でもあります。キリスト者は神と人、人と人の仲介役で す。モーセは万人祭司主義のバプテストの先例でもあります。



2015年9月13日(日)  臨在の幕屋の中で
  牧師 坂元 俊郎

 モーセは臨在の幕屋で主と共に語り合い、これからの道を願い求めます。モーセと神との親密な出会いから、多くを学ぶことができます。

1)臨在の幕屋で

 モーセは一人臨在の幕屋に入ります。臨在の幕屋とは、神と対面し神と語り合う特別な場所です。モーセは金の子牛のことで怒り、イスラエルの民の不信仰にも怒るのですが、彼は臨在の幕屋で神様と「友と語るように顔と顔を合わせて語る」のです。人生怒ることも投げ出したくなることも多くあります。でも神様との関係をモーセは投げ出すことはなく、神様もモーセと忍耐深く話して下さるのです。

2)モーセの願い

  モーセは4つの願いを神に語ります。一つはわたしと一緒に行く人を示して欲しいと訴えます。1人ではできないと自覚したからです。二つ目は神様の好意を示して欲しいと言います。神の愛と慰めを示して欲しいというのでしょう。イスラエルの民には今こそ支えが必要だからです。三つめはあなたの道をお示し下さいと願います。神が何を望んでおられるのか知りたい、主の御心を生きたいという思いです。四つ目はイスラエルの民が主の民であることを思い起こして欲しいという願いです。モーセは苦しみの中で率直に心を語る「真の友」を得ていたと思います。

3)同行し、安息を与える

 神はこのモーセの切なる願いに、「わたしは自ら同行し、あなたに安息を与える」と語ります。神は「わたしはもうあなた方とは上らない」と答えましたが、イスラエルの民を排除することなく、同行する者として歩むことを決意します。神は聖なる厳しい高みにいます神でもありますが、常に罪人と共におられる神なのです。エマオの途上の物語を思い起こします。復活の主は逃亡した弟子たちと共に歩く同行する方でありました。離反する民や弟子を見捨てることなく同行するのが聖書の神です。


2015年9月6日(日)  大勢でも1つ
  牧師 坂元 俊郎

 私たちは二つの礼典を大切にしています。一つは主の晩餐式であり、 もう1つはバプテスマ式です。本日は主の晩餐式を行います。

1)賛美の杯はキリストの血にあずかること( I コリント10:16)

 聖書は賛美とはキリストの血に与ることであると語っています。賛美とは神に捧げる感謝の歌であり、心です。しかしその賛美の根本や土台はキリストの血に与ることです。与るとはキリストの贖罪を受けること、キリストの十字架の赦しを受け取っていくことです。この罪深き我々がキリストの贖いによって買い取られていることを豊かに受け取ることなのです。あなたはいかがでしょうか?

2)パンは一つだから・・・大勢でも一つの体 ( I コリント10:17)

 聖書はパンは一つと語ります。パンはキリストの体を象徴しています。キリストの体はたった1つです。この1つのキリストの体をみんなで分け合うのです。教会と信仰の土台はこの1つのキリストです。 この1つのキリストを私たちは分かち合うのです。人の熱心な努力が 教会を1つにするわけではありません。人の1つになろうよという呼びかけが教会を1つにするわけではありません。私たち教会の1つの根源は「1つのキリストの体」なのです。

3)皆が1つのパンを分けて食べるからです( I コリント10:17)

 主の晩餐式では「1つのパン」を互いに分かちあい、「1つのパン」を 食べます。また「葡萄酒の入った1つの杯」から杯を分け合います。主の晩餐式の根源は1つの源、すなわちキリストの体なのです。「皆が1つのパンを食べる」とは、根源がキリストの体にあり、この1つのパンを共に食べることを語っています。私たちは大勢いても、キリストにあって1つなのです。教会のこの本質にしっかりと目を注ぎ、教会のこの本質にのみ教会の根本を置く時に、教会は教会とされていくのです。