レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2015年8月


2015年8月30日(日) 多神教の世界で十戒を生きる
  牧師 坂元 俊郎

 今日は出エジプト記から大変有名な「十戒」の部分を学びます。十戒は現代に生きる私たちにも大きな恵みを与えるものです。

1)多神教の世界で

 イスラエルの民は奴隷の地エジプトから出立します。エジプトは多くの偶像で満ちた地でした。巨大なファラオの石像、動物を礼拝するための巨大な像、体は人間で頭は動物の神話による石像、手に握ることができるほどの偶像などがありました。それらは町の至る所に置かれ、多産、商売の繁盛、経済的な繁栄、疫病からの癒し、王の権力の象徴でもありました。イスラエルの人々にはこれらの偶像から離れることが大変困難でした。

2)「主なる神である私」と「人であるあなた」の関係から

 十戒の中でまず言われていることは「わたしは主、あなたがたの神である」という啓示の言葉です。 神はまず「主である私」と「人間であるあなた」との関係に人間を立てます。神ご自身と人間との関係で人間の生を考える、主なる神なしでは人間は存在できないという点から開始するのです。聖書は偶像の存在や他の神々の存在が至る所にあることを認めます。神は実に多神なのですが、しかしその中から「主なる神、ヤハウェ、エロヒームである神」との関係こそが大切であることを述べるのです。

3)神との関係で生きる

 それゆえに第1戒から第4戒までは神との関係が語られます。5戒から10戒までは人と人の間の倫理が語られます。神ご自身の前に立つ、神と関係を深くしつつ神の御心を求めて生きる関係が先なのです。神がどのような神であるかを知ることによって、人と人の間の倫理は理解されていくのです。もし私たちが聖書も読まず、お祈りをすることなく、神の前に出ることがなければ、私たちは神の栄光を知ることなく、神の知恵を知ることなく、神の聖を知ることもないのです。教会は神の前に出て、神との関係を築く場所なのです。神と対面する場所でもあるのです。



2015年8月23日(日) 心やさしいアドバイザー:エトロ
  牧師 坂元 俊郎

 今日はモーセがしゅうとエトロからリーダーとしてのあり方にアドバイスを受けた部分を学びます。人生は悩みの連続、良きアドバイスは大切です。

1)エテロ、良きアドバイザー

18章の前半を読むとエテロは祭司であり、礼拝を守り続けていた人であることがわかります。又モーセが心良くエトロの訪問を受け入れていることか ら信頼に足るべき人でったこともわかります。またエトロは神の救いの詩を 捧げているので、自立した信仰の持ち主でったことも読みとれます。良き友 は私たちの知恵袋となり、真摯な相談相手は私たちの迷いや試練を乗り越える知恵を与えてくれます。良き友人になり、良き友人を持つべきでしょう。

2)神の知恵をアドバイスするために

「民は神に問うために私のところへ来る」、「神の掟と指示とを知らせる」とモーセは語ります。エトロはアドバイスをする前置きに「神があなたと共におられるように」と語ります。さらに「神の前に立って事件について神に述べなさい。」と語ります。モーセとエテロが人々の相談に乗るのは神の言葉であり、神からの助けの言葉を聞いて、それを人々に指示することでした。 人の言葉ではなく、神の言葉を語る事だったのです。ここに一般的な相談との違いがあります。神の前で語り、神から言葉を頂くのです。

3)問題を分かち合う

 エトロはモーセが全部を聞き、モーセが全部を裁くのは大変だろうと語り、その多忙さを理解します。さらに信頼に値する人を選び、それぞれに分担して相談事を裁くようにとアドバイスします。モーセ一人で全部裁かないよう にするのです。大きな事件や小さな事件など識別して、人に任せていくので です。さらにエトロは「この民が安心して自分のところへ帰ることができる」ようにとも心を配ります。大変やしい配慮に思えてなりません。私たちも教会のみならず、色々な人と色々な事柄で相談を受けるでしょうし、相談するでしょう。安心し、心に平安を頂いて帰っていく働きをしたいと思います。



2015年8月16日(日) 積極的平和主義とは
  牧師 坂元 俊郎

 「積極的平和主義」について、ルワンダに住む佐々木和幸宣教師についてメールで訊いてみました。先生の専門は「平和学」です。

1)ヨハン・ガルトゥングの「消極的平和主義」

 ルワンダの佐々木先生はヨハン・ガルトゥングの平和を紹介して下さいました。ガルトゥングによると「いわゆる戦争のない平和な状態」は、消極的平和と呼ばれるそうです。戦後70年日本は戦争がなかったと良く表 現されますが、これはまさに消極的平和状態と言えるのではないかと思います。消極的平和主義とは戦争行為に参加しない、または戦争のために共に汗をかかないと言うこととは、違いものだということです。

2)ヨハン・ガルトゥングの「積極的平和主義」

 ガルトゥングによると「積極的平和主義」とは、戦争の原因となる根源的な課題と取り組むことであると言うことです。平和に対して戦争を対置 するのではなく「暴力」を対置します。貧困・飢餓・政治的抑圧や差別・経済的搾取等と言った社会的構造に取り込まれ、基本的な人間性を奪うも のと取り組むこと、人間性実現を阻む「構造的暴力」を根絶するために働くことによって、本当の平和が成立するというのです。戦争の原因となる より根源的で、戦争の原因になるものと取り組むことを重要とします。

3)安倍首相の「積極的平和主義」と「聖書の平和」

 安倍首相の「積極的平和主義」という考えは、「軍事同盟に積極的に参加すること」であるようです。戦争に協力できるように軍備や法制や人心を整えていくことのように見えます。ガルトゥングは安倍首相の言葉の用い方を間違っているとして、大変怒っているそうです。ガルトゥングは8月半ばに来日し幾つかの個所で、講演会を行うそうです。マナや水を与える神の愛、良きサマリア人の例えが示す「思想や信条や信条を越えた援助 の精神」、さらに1民族だけではなく「人」を創造された神の物語は、戦争の根源的な課題に肉迫するものであろうと思います。



2015年8月9日(日) 平和を創造する神
  牧師 坂元 俊郎

 八月を迎えました。今年は戦後70年を迎える年です。国会では安保法案の審議が続いています。聖書は平和についてどう語っているのでしょうか。

1)平和を求める神

 「悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩篇34:15)に代表されるように聖書の示された神は、平和を求める神です。イスラエルの民の挨拶の言葉は「シャローム」で、平和とか平安とか安心とかの意味を含みます。また神ご自身が「平和の君」(イザヤ9:5)と呼ばれています。神は破壊の神ではなく創造の神、敵対の神ではなく和解と贖いの神、戦争を好む神ではなく憐れみの神です。この愛と和解の上に神の怒りも成り立つのです。

2)キリストの平和

 パウロは「キリストはわたしたちの平和」(エフェソ2:14)と述べています。キリストの生き方はまさしく人々に平和をもたらす生き方であったと 言えます。ペテロが怒って剣を抜いた時に「剣をさやに納めなさい。」と戒め、「剣を取る者は剣で滅びる」と続けて語ります。現代は抑止論が力を持っています。抑止論は結局核兵器の増強合戦に至り、その先にあるものは 核兵器で互いに滅びると言う結果に至るのではないでしょうか。抑止力増強による戦争への期待は、キリストの思いに反する者であると言えます。

3)安保法制の危険性

  今回の安保法制は三つの問題点を含みます。 一つは安保法制そのものが戦後70年の個別的自衛権を遥かに逸脱していることです。二つ目は戦後70年犯すことのなかった立憲主義を逸脱していることです。さらに第三に極右 の日本会議の背景を持ち、民族主義的で他者を排除する思想を持ち、国家主義であり多様な意見を取り入れる普遍的な平和主義に程遠いことです。偏狭な民族主義は多様な意見の柔軟な対話による民主主義を破壊するのです。キリスト者は少数者です。国家主義は少数者の立場を聞くことも無く、多様な な意見を抑圧し、1つの価値観で統制して行く危険を持つのです。



2015年8月2日(日) 命のパンを分かち合う
  牧師 坂元 俊郎

 今日は主の晩餐式を行います。マナの物語を背景して語られるイエス様の言葉を中心として、主の晩餐式の意味を書いてみましょう。

1)「わたしが命のパンである。」(ヨハネ6:34)

 イエス様はモーセとイスラエルの共同体が経験した「マンナの物語」を背景にして、マンナ(マナ)をパンと読み替えて、ご自分のことを語ります。マンナ(マナ)を食べたイスラエルの民は死んでしまうが、わたしを食べる者は死なないと語るのです。キリストは人間にまことの命を与えるパンなのです。キリスト者であるとは、このキリストと言う命をパンを頂きながら、永遠の命の中を生きる者なのです。教会はそのような者の群れです。

2)「わたしが与えるパンとは・・・わたしの肉である」(ヨハネ6:51)

 主の晩餐式でパンを食するとは、キリストの体を食するということを象徴しています。この事はキリスト者は日々キリストの肉体を食べ、日々キリストの体を共に生きる者であるということを意味しています。キリストの「みことば」に生き、キリストが生きたように生き、キリストが死んだように キリスト共に死ぬことを意味しているのです。このように生きた者は、復活のキリストの姿へと変わっていくのであり、キリストのように死後も生 き、聖霊と共に生きて、命を示す者へと変えられていくのです。

3)「天から降って来たパン」(ヨハネ6:50)

 キリストは天から降って来たパンです。神と共におられたにもかかわらず、人の姿をとって人の世界に降って来られた方なのです。「まことの人とはキリスト」のみです。人間は真の人ではないのです。罪の中にある罪人に過ぎなのです。多くの偉人達、多くの哲人や道徳的に優れた人が いても、社会的政治的に神のような人がいても、人は罪人なのです。人は 「天から降って来たパン」であるキリストによってのみ救われ、贖われ、助けられていくのです。教会は「天からのパンであるキリスト」を共に頂き、共に分かち合い、「命のパンを指し示す場所」なのです。