レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2015年7月


2015年7月26日(日) 出エジプト記の3つの読み方
  牧師 坂元 俊郎

 今日学ぶ出エジプト記14章は色々な読み方をされるようになりました。その例をいくつか書いてみましょう。

1)政治的・社会学的な読み方

 出エジプトの物語は20世紀後半に入り政治的・社会学的な読み方をされるようになりました。 貧しい人々が政治・経済・人種的な抑圧から解放される物語として読まれるようになったのです。中南米のカトリックの解放の神学、 キング牧師の市民権運動、韓国の民衆の神学等に代表される聖書の読み方がその例と言えるでしょう。出エジプトの物語は 人々に自由と解放をもたらす神の自由への解放の物語でもあります。

2)個人内面的な罪からの解放の物語

 これは従来からなされて来た読み方です。 出エジプトの物語を個人の内面的な罪からの解放の物語として読み、古い自己から、苦難を経てのち、 「新しい自己」である「神に解放された自己」、または「新しい神の国」である「神と共に生きる自由な自己」への、 心理的・個人内面的な完成を目指す物語として読むのです。 出エジプトの物語はあらゆる罪から人を解放する物語として読むことができるのです。 出エジプトの出来事は、罪に汚れた私たちを洗い清め解放する物語です。

3)贖罪的な読み方

 出エジプトの物語は代価を支払って成就していく物語です。動物の初子を鴨居に塗る、 エジプトの初子が殺害されていく、またエジプトのファラオやエジプトの軍隊が多数死ぬなど、犠牲や代価がたくさん 捧げられていることに目を留めて行きます。出エジプトは大量の犠牲と代価に基づいて果たされたのです。 この犠牲と代価の思想は、礼拝における贖いの儀式として取り上げられ、創世記の後半部分に連綿と述べられます。 新約聖書・旧約聖書においても代価と贖いの思想は大切です。「救われる」ことは誰かの犠牲の上に成り立っているのです。



2015年7月19日(日) 回り道でも
  牧師 坂元 俊郎

モーセの出エジプトの物語を学び続けています。今日の13章はいよいよ イスラエルの民がエジプトを出ていく物語の部分を学びます。

1)神は「イスラエルはエジプトに帰る」と判断した(17節)

 神は最短距離である「ペリシテ人の道」へは導かず、最も遠い道、南ルートへと導きます。それはペリシテ軍に出会えば戦いとなり、敗北してエジプトに引き返すことになるであろうイスラエルの心情を 主が読んだためです。主なる神は独断と偏見で民を導くことはありません。イスラエルの民の心を知り、 軍事・政治状況を考慮しながら判断して導く神です。神は人の判断を自分の判断に加え、斟酌し、心を使い、 配慮する神です。

2)モーセはヨセフの骨を携えて出ていく(19節)

 イスラエルの民が出エジプトをするに際し、 モーセがヨセフの骨を携えて出ていったと記しています。ヨセフが死んだのは430年も前のことです。 かくも長きにわたって、イスラエルの民はヨセフを忘れず、必ずカナンの地へ導き入れるという主の 契約を忘れることはなかったのです。主のその契約のシンボルが「ヨセフの骨」だったと言えるでしょう。 イスラエルの民は長い間忍耐深く、奴隷の地エジプトからの脱出を待ち続けたのです。私たちの人生は、 前のめりに速く速くと急いでいないでしょうか?

3)「先だって進み」「共に進み」「離れることなく進む」(21〜22節)

 出エジプトの時に神は「先だって進み」(21)、「導き」(21)、「 照らし」(21)、 「民の先頭を離れることはなかった」(22)と記されています。主なる神は絶えず共にいて導いて 下さいます。神は私たちから離れることはありません。神は常に共に進んでくださるのです。 神が導く道は最も大周りの迂回路でした。迂回路であることよりも「神が共にいる」という道が大切なのです。 迂回路のように見えても、それは決して「信仰の迂回路」なのではないのです。 大切なことは主が共におられ、主が先頭に立って主と共に生きる道なのです。主はそのことを我々に示しています。



2015年7月12日(日) ほめたたえるべき主
  牧師 坂元 俊郎

 昨日はトリオディベールの集会、今日は小松沢先生にメッセージや研修を行って頂きます。 今日は主を賛美することについて、書いてみましょう。

1)「ほめたたえるべき主」

 この言葉は、わたしがクリスチャンになったばかりの頃に、 良く歌ったゴスペルソングの一節です。初めて聞いた時に大変驚きました。神様を「ほめたたえるべき」の 「べき」はどんな時でもです。悲しい時もつらい時も神様が見えない時も遠く離れている時でも、第一に「 歌うべき」方であると知りました。人の移ろいやすい信仰ではなく、「まず」歌うことから信仰が始まるのです。 人生が讃美歌で始まるとは、本当に幸せな人生を約束されていると思います。

2)「一番素晴らしいのは、会衆賛美なのよ!」

 この言葉は大谷レニー先生が木曜日の 聖歌隊の練習の時に、話してくださった言葉です。とてもいい言葉だと思います。賛美の独唱も、 聖歌隊の賛美も、子どもクワイアも、青年のバンドも好きです。でも先生は礼拝の中の「会衆賛美ほど 豊かなものはない」と教えて下さいました。それは痛みや喜び、苦しみや感謝等あらゆる状況を含みながら、 会衆が共に賛美の声を主に上げるからです。礼拝に集った一人一人は皆状況が違うでしょう。 しかし「共に主に」声を上げることができ、共に賛美を聞きあえることこそが、教会らしい一致であろうと思います。 互いの苦難や喜びを分かち合う賛美こそ、イエス様的と思います。

3)シュバーベルさんのピアノ伴奏

 アメリカにいた時に100名ほどの小さな祈祷会に良く出席しました。ミセス・ド―ジャーが誘って下さったからです。その祈祷会でいつもピアノを弾いて下さるのが、シュバーベルさんでした。40代の若い男性でしたが、とても素晴らしい伴奏者でした。クラシックなピアノの音質で、心込めて弾いて下さるその心が静かに響いてくる伴奏で、いつもとても感動したものです。心を込めて一日の終わりの祈祷会を過ごせることが、あんなに幸せであった時はありません。深い霊的な感情や深い神との出会いは、人に永遠を思う心を与えるのです。



2015年7月5日(日) 主の体と血とにあずかる
  牧師 坂元 俊郎

 今朝は共々に主の晩餐式を守ります。主の晩餐式は教会と信仰の車軸のようなものです。これがはずれると、教会と信仰が失われるのです。

1)キリストのために命を失うこと

 イエス様は「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る。」(マタイ10:39)と言われました。この大胆な発言の意味は、人間の命に執着するのを止めて、キリストの生き方、聖霊の命、主の命に生きるならば、永遠の命もしくはまことの命を生きるということを意味します。キリストの血と肉にあずかる時、すなわち主の晩餐にともにあずかる時に、この事が起こるのです。

2)互いにぶどうの枝(教会)となること

 「イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あながたはその枝です。」と言われました。(ヨハネ15章)わたしたちが共に主の晩餐にあずかる時にこの言葉が成就するのです。パンに象徴されるキリストの体を共に受け、キリストの血を象徴するぶどう酒を共に受ける時に、わたしたちはぶどうの木のたとえのように、キリストにつながって枝として生きるのです。一人でキリスト者と成ることはありません。キリストにつながるそれぞれの枝としてキリスト者になるのです。教会員はキリストの枝としてつながっています。

3)キリストの死(十字架)と復活の群れ

 パウロは「なぜなら、もしわたしたちが彼の死に似通ったかたちに結びつく者となっているのなら、さらにその甦り[と似通ったかたちに結びついた]者にもなるであろうからである。」(ローマ6;5、岩波訳)と語ります。主の晩餐にあずかる時に、この言葉が成就します。キリストの体を象 徴するパンを受け、キリストの血を象徴するぶどう酒を受ける時に、キリストの十字架の体に結びつくのです。そしてキリストの体に結びついたわたしたちの体はキリストの復活の体にも結びつくのです。これは終末に至る時に 与えられる復活の喜びにあずかる予兆として我らの命を祝福するのです。