レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2015年6月


2015年6月28日(日) 神学校週間を迎えて
  牧師 坂元 俊郎

 今週から来週にかけての1週間は神学校週間に当たります。東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校、西南学院大学神学部のために捧げます。

1)神学教育の必要性

 バプテスト教会は神学校へ入ることが主の働き人になることの絶対的な条件ではりません。それではなぜ神学校や神学部で学ぶ必要性があるのでしょうか。それは主の働き人には、特に主事や牧師には、一定の専門的な知識や技術が求められるからです。説教の方法、聖書の読み方、幼児から高齢者までの全年齢層の人々との出会い、多種多様な職業を持つ人々との出会いなど牧師には広範囲な知識や牧会の方法が求められるのです。

2)神学生への財政的支援

 アメリカの神学校で学んだことは、奨学金制度がとても大切にされているということです。神学教育は大変高い評価がなされているように思います。個人的な名前を冠した奨学金、大学が支援する奨学金、教会名義の奨学金等多様な奨学金制度があるのです。教会や社会が良き教会人を育てたいという期待があるように思います。アルバイト等をすることなく、一定のアパートで生活し、子どもや家族を抱えながら学ぶ神学生に財政的な支援をしていくのです。人を共同で育てることは、実に豊かなものなのです。

3)豊かな神学生生活

 神学生の生活は年齢を重ねるごとに、本当に学んで良かったと思えるようになってきました。専門的な学びの楽しさ、先生たちとの出会い、級友たちとの出会い、真摯に神と人に出会う時間など、はまことにかけがえない体験です。自分の限界も知り、多くの先達者の前に謙遜にさせられる体験など素晴らしいことです。この時代に良き学びを経験して欲しいと心から祈るばかりです。私の経験からしても、7年間の神学校での学びは、人生の最も深い期間であったと思います。神学校や神学生を支える働きは、大変有意義な教会形成、伝道者形成、人格形成の基本として大事にされるべきものです。



2015年6月21日(日) ゲール(寄留者)のモーセ〜出エジプト記(3)〜
  牧師 坂元 俊郎

  今日は出エジプト記2章の後半を学びます。モーセは過酷な強制労働の下で働くイスラエルの民の現実を体験します。

1)追いつめられるモーセ:アイデンティティーの危機

 モーセは強制労働に下で働くヘブル人の現場を見ます。第一の現場はエジプト人がヘブル人を殴打する現場です。モーセは怒りエジプト人を殺害します。第二の現場はヘブル人同士の喧嘩です。モーセは仲裁に立つのですが、同族のヘブル人にも忌み嫌われます。第三はエジプト王がモーセを殺害しようと狙います。モーセは同胞のヘブル人、育てられたエジプト王とエジプト人とも自分を同一化させることは出来ません。アイデンティティーの危機です。

2)ゲール(寄留者)の自覚

 モーセは殺害されるのを恐れて、ミディアンの地に身を隠します。ミディアン人はアブラハムの子孫であり、祖先が同じだったからでしょう。モーセはそこでツィポラと結婚し、息子を「ゲルショム」と名付けます。その意味は寄留者です。エジプトでも、ミディアンの地でもモーセは「寄留者」として生きぬかねばならなかったからです。この「寄留者」としての自覚は、出エジプトの放浪、地上では寄留者という聖書の人間理解の土台となります。

3)苦しみの声を聞く神

 ヘブル人は強制労働、蔑視、過酷な労働の苦しみ、過酷な労働の苦しみの声を上げます。この時「神はその嘆きを聞き、契約を思い起こし、人々を顧み、御心に留められた」のです。この神の姿勢は「わたしの民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」と3:7にも繰り返されます。神は苦しむ者の声を聞き、見放すことはなく、人の苦しみを神の苦しみとして、共感し、人と同じようになることが出来る神なのです。この事は、キリストの苦しみを聞き、キリストに死からの復活、永遠の命を約束する神であることを示しています。神は苦難を共に生きる方です。



2015年6月14日(日) 籠の中のモーセ〜出エジプト記(2)〜
  牧師 坂元 俊郎

  今日は出エジプト記2章を中心に学びます。モーセの生い立ち物語には、どのような意味が秘められているのでしょうか。

1)見えざる神が、神のなしと思える世界に働く

 今日の物語には運命のいたずらが含まれています。王にとっては、殺害の道具であったナイル川は、神にとってはモーセの命が拾われる場となります。王には害を及ぼさないと考えられた侍女たちが、王に反旗を翻すモーセを育てる者となります。王の権威のもとにある被支配者であった王女は、神の僕であるモーセを育てます。見えざる神は、歴史の裏側で確実に働くのです。

2)モーセの籠とノアの箱舟

 モーセが入れられた籠は、ヘブル語で「テバート」と言われています。この「テバート」は創世記では「箱舟」と訳され、ノアの箱舟に用いられています。両者とも水(混沌の象徴)の上をさまよいます。ノアもモーセも神の使命を受けて、ノアは神の被造物を救い、モーセは神の民イスラエルをエジプト(混沌)の抑圧から解放します。神の使命は不安極まりない水の上で遂行されて行きます。しかし神は「籠」と「箱舟」という守りの中で、その使命を達成するのです。水を恐れることなく、神の守りを確信したいものです。

3)機知に富んだ女性たち

 前回の助産婦も機知に富んでいました。今回も「乳母を呼ぶ」と言いつつ、実母を連れて来るモーセの姉(ミリアム)の機知にも感心します。王を恐怖し、息子モーセを手放した母(ヨケベド)は、息子と再会し、育てることが出来ました。母は大変な喜びであっただろうと推測します。機知に富む対応、機転の利いた対応は、人生にユーモアを含む喜びを与えるものです。ミリアムの対応もユーモアのある対応です。しかし常日頃から対応策を思いめぐらしていてこそ、ひらめきは起きるように思います。私たちも神様から良き知恵を与えられるように、心して信仰生活を送りたいものです。



2015年6月7日(日) 神を畏れるとは国家への不服従〜出エジプト記(1)〜
  牧師 坂元 俊郎

 出エジプト記1章は整えられた構成の文章であり、国王(国家)と神(ヤーウェ)との対比の中で、ヤーウェに生きることの豊かさを啓示します。

1)命を創造する神(1:1〜7)

 1〜7節までイスラエルの民が増えたことが書かれています。イスラエルの12部族、エジプトに渡った70人、そこから増えて行くイスラエルの民。出エジプトの際には60万人にもなったと言われています。この増加は神ご自身の約束、命を創造し、命を育てる者は神ご自身であると言う、「命を創造する神」の約束によるものです。溢れ出す命の創造は、「あなたの星の数のようにする」と言う神の約束に基づくものなのです。

2)国家の凶暴さ(1:8〜14)

 1〜7節の人口増加に対し、ファラオは脅威と不安を覚えます。国王ファラオは男児殺害を命令します。本来国家は知恵と方策を尽くして、国民を保護する務めを負う者です。しかし政治的混乱や政権を危うくするという危機感は幼児殺害という国策へ向います。人民を守るべき国家は時として人民殺害へと向かう凶暴な政治組織であることを心得て置くべきです。これはナチス政権、現代のミャンマーの政権等でも行われる極めて現代的な出来事であることを知るべきでしょう。

3)国家への不服従(1:15〜21)

 二人のヘブル人助産婦シフラとプアは、このような国家政策や王の強制には服従しませんでした。むしろ二人は男児を助ける役目を担っているのです。市民の国王への不服従と言っていいでしょう。二人は命を抹殺する国家へ服従するよりも、命の主であり、命を創造するヤーウェの神へ服従するのです。国王への不服従は自ら命の危険にさらされる道であることは二人は知っていたはずです。「神を畏れる」とは、国家の強力な権威や国王への不服従を含むことでした。どんな人間的な権威をも恐れず、神を第一の権威者として神に服従することが、畏れることなのです。