レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2015年5月



2015年5月31日(日)  ローマでのパウロ:福音は世界へ
  牧師 坂元 俊郎

 今回で使徒言行録は終わりです。ローマでの最後の働きをまなびましょう。

1)鎖につながれる根拠は「希望」であった

  パウロは「イスラエルが希望していること」(28:20)の故に、鎖につながれていると語ります。つながれる理由は信仰の根源に関わることの故です。ここでの「希望」とは何でしょうか。それは「メシアが苦しみを受け、また死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げた」(26:23)と言う希望です。また「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望」(24:15)です。この希望と喜びが投獄、殺害、裁判の源でした。

2)「疫病のような人間」パウロの伝道

 パウロは「朝から晩まで説明し、神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言書の書を引用して、 イエスについて説得しようとした」(23)と記されています。パウロは「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派の主謀者」(24:7)と、うとまれ、嫌がられ、迫害されました。 しかしパウロは、キリストについて、証しをし、説得し、宣教し続けたのです。パウロは難破、暴風雨、「助かる望みは全く消える」(27:20)体験をしつつ、伝道したのです。

3)「神の救いは異邦人に向けられた」:救いは全世界の人々に及ぶ

 パウロはイザヤ書を引用して、「ユダヤ人の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまっている」(28:27)と述べています。ユダヤ人たちがメシアの苦難と死、復活と来臨を信じることが出来ずに、イエス・キリストを拒んでいることを語ります。しかしこのことは、救いが異邦人にも及ぶことを示しています。民族宗教的であるユダヤ教を背景にしつつ、キリスト告白が、異邦人にもおよび、民族を超えた普遍的な宗教であることを示しています。イエス・キリストはすべての人々が信ずることが出来る信仰となっていることを語るのです。パウロの信仰は世界へ広がるのです。




2015年5月24日(日)  ミレトスでの別れの言葉
  牧師 坂元 俊郎

  今日は使徒言行録20章から、パウロがミレトスで語った別れの言葉を学びます。実際二度とエフェソの長老たちと会うことは出来ませんでした。

1)主に仕えて来たパウロ(20:18〜21)

 パウロは主に仕えて来たと語ります。自分が取るに足りない者であり、涙を流し、多くの陰謀に出会い、試練に出合いながら、彼は主に仕え続けて来たと語ります。教え、伝え、悔い改めを迫る宣教者の務めを果たして 来ました。彼の生涯はキリストの証し人の生涯であったのです。自分にとって最も大切な福音を生涯かけて生きぬく姿がここにあります。パウロにとって試練や陰謀による苦しみより、はるかに大切なものが福音でした。

2)霊に促されて伝えるパウロ(20:22〜23)

 パウロは聖霊の語りかけを聞いています。聖霊はエルサレムに行くことをパウロに促します。しかしまた聖霊はパウロが投獄と試練とにエルサレムで出会うことをも告げ知らせます。実際パウロはエルサレムで逮捕され、暗殺の計画に脅かされ、総督フェリクスやフェストスの前に引かれて行きます。そしてカイサリアでは監禁される経験もします。しかしパウロはこれら試練の中で、証しと弁明とキリストの経験を証しを続けて行くのです。「黙っているな、語り続けよ」の神の声に忠実でした。

3)この命すら惜しいとは思わない(20:24)

 この言葉はパウロの男らしさを語る言葉ではありません。又パウロの意志の強さを告白でもありません。またパウロの英雄的な姿を示す言葉でもありません。パウロにとって、自分の命を失うことによって、キリストの復活に与かることを意味します。自分に死ぬ、聖霊やイエスの言葉や神の導きに服従して自らを失うことが、まさに真に生きることであることを示しています。キリストのための死はまさに、生きること、命を得ることになっていくのです。私たちキリスト者が生きた者となるとは、神の言葉に自らを捨て去る時に、得て行くものなのです。




2014年5月17日(日)  良き友に助けられて
  牧師 坂元 俊郎

 パウロは5000キロの伝道旅行をしたと言われています。彼の生涯は聖霊の助けもありましたが、良き友に助けられた伝道でもありました。

1)アキラとプリスキラ夫妻

 第2回伝道旅行でコリントに行ったパウロは、アキラとプリスキラ夫妻と出会います。夫妻はローマから追放されてギリシャに来たユダヤ人でした。夫妻はパウロを迎え、色々と生活の配慮もしてくれたことが推測されます。夫妻はエジプトのアレキサンドリア生まれのアポロにもイエス様について教えました。アポロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と言われるように、コリント教会の堅実なリーダーとなりました。

2)パウロを助けた多くの人々

 パウロは多くの人々と協働しました。カイサリアで共に伝道した医者ルカ、ケンクレアの女性執事フィベ、 ローマで従ったユウニケの子テモテ、パウロをエルサレム教会に紹介したバルナバ、マケドニアで銀細工人デメテリオのことで起こった騒乱の時に共にいたアリスタルコ、使徒会議の結果をアンティキア教会に伝える使者となったシラス、第2回伝道旅行では同伴しなかったものの後に和解し、ローマで獄中生活を共にしたヨハネ・マルコなどです。伝道の友がいることは本当に励みと慰めになります。

3)「恐れるな、黙っているな。語り続けよ。」

 良き友に恵まれてパウロは伝道しました。しかし主は常に共にいました。コリントでも主は幻の中でパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしはあなたと共にいる」と迫って下さいました。主の言葉は強い励ましの言葉です。失望や落胆の時にこの言葉は慰めになります。苦難の多かったパウロに主はピッタリと寄り添って下さるのです。何を語り、語ったことに意味を発見できない時にも、黙っているなと主が語ることを勧めて下さるのです。この励ましの言葉に立ってパウロは語ったことでしょう。この励ましの言葉は、時空を超えて今の私たちの胸に深く響き渡ります。    




2015年5月10日(日)  アレパゴスの丘で 〜 第3回伝道旅行 〜
  牧師 坂元 俊郎

   第2回と第3回のパウロの伝道の旅は、エーゲ海周辺の町々をめぐる旅でした。アテネのアレオパゴスの丘での説教について書いてみましょう。

1)「探しさえすれば、神を見出すことができる」(17:27)

 この言葉は私たちへの約束の言葉です。時として私たちは、色々な試練があると、神を諦めてしまいがちです。しかし私たちが神を求め続けるならば必ず神ご自身を見出し、神ご自身と出会うことが出来るのです。神は、私たちにその姿を示し、神は必ず救いと助けの道を開いて、神の祝福をもって、出会って下さるのです。あなたは神を諦めながら信仰生活を続けていないでしょうか。神は探し出されるのを待っている方なのです。

2)「われわれは神のうちに生き、動き、存在している」(17:28)

 パウロが私たちの生活がどのようなものであるかを語ります。私たちは神のうちで生きています。私たちは神の計画、神の使命、神の愛の中で生きているのです。私たちが絶望や落胆の中にあったとしても、その落胆も絶望も神の中にあります。神の愛と神の見守りの中で、悲喜劇をも生きているのです。私たちの存在すらも神の創造の対象であり、神の命を受けて存在しているのです。神の手の中で生きる、神の愛のふところの中で生きると言っても良いでしょう。その意味で深い平安を得ることが出来ます。

3)「一人の方」に生きる(17:31)

 アテネの人々がパウロの話を聞くのを拒否したのは、キリストの出来事を語ったからです。彼は「一人の方(イエス・キリスト)によって、この世を正しく裁くと語り、「神はこの方(イエス・キリスト)を死者の中から復活させた」と語ります。どんなに人々から拒否され、町から追い出され、石を投げられたとしても、決して語ることを止めなかったことが、このイエス・キリストの出来事でした。聖霊はこのことを語るために、パウロに強く働いたのです。聖霊の働きとは、キリストの十字架、復活、来臨を語ることでした。無視や騒乱を引き起こすとしても、この福音を語り続けましょう。




2015年5月3日(日)  福音に生きる者〜エルサレム使徒会議〜
  牧師 坂元 俊郎

エルサレム使徒会議は、キリスト教信仰にとって大変大きな転換点をもたらす重要な会議です。「激しい論争」の意味を書いてみましょう。

1)割礼主義者のキリスト者

 エルサレムからやって来た割礼主義者は、ファリサイ主義を基盤にした最も伝統的なユダヤ主義者でした。割礼の伝統とキリストの福音の両方がなければ、救いなしと言う人々でした。彼らの立場はこれまでの伝統は無視しえず、神の選びを受けた割礼ありのキリスト者でなければ、神の救いの計画には入ることが出来ないという主張でした。伝統となり、文化となったユダヤ教と「キリストの福音」は並列してこそ救いがあるというのです。

2)戦時下のキリスト教

 戦時の日本のキリスト教と戦時のドイツのキリスト教にも、同じようなキリスト教が起こりました。日本では天皇制という文化とキリストの福音は両立するというキリスト教が起こり、天皇制もキリストも大事にしようという立場です。ドイツではナチズムとキリスト教は両立するというドイツ的キリスト者の立場で、この世の権威となったナチズムを無視することはできないという立場でナチズムと協力します。割礼主義も、天皇制支持のキリスト教現実や所与の文化に合同する、「生き延びる」キリスト教でした。

3)「福音」に生きる

  割礼主義のキリスト教に対立したのが、パウロの立場でした。パウロの主は、キリスの十字架と復活にのみにより律法から自由にされたキリスト教でした。キリストの十字架と復活は、律法を成就したものであったのです。このようにして、ユダヤ教から完全に独立したキリスト教が、成立したのです。それは当時の社会的に当然守るべきユダヤ教からも迫害を受け、ユダヤ教の文化を残そうとする割礼主義のキリスト教からも迫害を受ける新興宗教であ ったのです。キリストの十字架の出来事と復活の出来事は、割礼主義を超えて、新しい教えとして、世の迫害を受けつつ、広がって行くのです。