レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2014年10月


2014年10月26日(日)  慰めよ、わたしの民を
  牧師 坂元 俊郎

 今日はイザヤ書40章を学びます。苦しい捕囚の生活は終わり、故郷イスラエルの地に帰還する喜びを語り、苦難の民を励まし、力づけます。

1)慰めよ、わたしの民を、慰めよ(40 : 1)

 ヤハウェの神は、イザヤに「慰めよ、わたしの民を。苦役の時は過ぎ、咎は償われ、罪の報いは受けた。」と語ります。苦しい捕囚の時代は終わりとしてよい。多くの罪の償いは充分に行われ、罪の報いは充分に受けたのだから、イスラエルの民を慰めるようにと語るのです。主はイスラエルの民の罪を赦し、故郷へ連れ戻し、生きる希望を再び与えようと願っておられるのです。苦難の中にある人々をわが民と呼び、慰め、励まし、希望を与えます。

2)良い知らせを伝える者よ、声をあげよ(40 : 9)

 ヤハウェなる主は、「高い山に登れ、そこから力を振って恐れることなく良い知らせを告げよ」と語ります。バビロンからの解放、故郷への帰郷、励ましの言葉を、大声を上げて、伝えるようにと命じるのです。バビロン捕囚からの知らせは、まさしく「良い知らせ」なのです。現代のわれわれ教会の使命を示しているように思います。教会は人々を解放し、人々を慰め、人々を主の恵みへと立ち帰らせて行く福音宣教の使命があります。教会は十字架のキリストの愛について、「声を上げて」いく神の家族です。

3)神の言葉はとこしえに立つ(40 : 10,11)

  イスラエルの主を、見上げるようにと聖書は勧めます。肉なる者は滅んで行くのに対し、神の言葉は永遠である。人や国は草のように枯れ、花のようにしぼんでいくのに比べ、主は力あり、栄光に満ちた方なのです。この神は バビロン捕囚から解放し、荒れたエルサレムに連れ帰り、そこを再建させて下さる方なのです。永遠の命を持つ神の言葉は、とこしえに残り、とこしえに時代を超えて立ち続けるのです。魂の牧者である神は、力を持って我々を導きます。しかも羊飼いが羊を養い守るように、我々を守り、その言葉で日々我らを育てて下さるのです。



2014年10月19日(日)  終末・裁き・希望
  牧師 坂元 俊郎

 イザヤ書は私たちの終末理解について、新しい見地と示唆を与え、終末の恐怖だけではなく、新しい希望を与えてくれるものです。

1)終末の二つの要素:破滅と新しい希望

 終末についての聖書記述は2つの要素から成り立っています。一つは審判や破滅と言うものです。神は国であれ、民族であれ、個人であれ、神の御旨を軽んじ、背反するものには厳しくその罪を問われます。しかしもう1つは 神はその厳しい裁きの後に、必ず新しい希望を生まれさせます。それが今日の個所では「若枝」と記されています。バビロン、アッシリア、モアブ等の国家をも審判します。しかし「若枝」の希望が残されているのです。

2)「若枝」の性格

 イザヤ11章には「若枝」とはどんな人であるかが記されます。彼は7つの霊に満たされています。すなわち主の霊、 知恵の霊、 識別の霊、 思慮の霊、勇気の霊、主を知る霊、主を畏れ敬う霊で満ちています。「霊が留まる」とありますが、この「留まる(ハーナー)」は、「密接な関係をもって導く」の意味があります。主の霊と密接な関係を持ち、主の霊によって人々を導く方であると言う意味が含まれています。まさに神の啓示者が破滅の後には誕生するのです。私どもが神の審判を受け、滅ぼされても、神の啓示者が共にいます。

3)若枝の働き

 イザヤ11章には「若枝の働き」も記されています。彼は見えるところで判断しません。弱い人や貧しい人を弁護します。神に背信するものを死に致らしめます。彼は無学で愚かな人々と言われる人々の立場に立つのです。又彼の作る審判の後に到来する世界は、狼が小羊と共に住み、獅子も牛も共に草を食む争いなき世界、乳飲み子が毒蛇と戯れる危険や危機の無い世界、他の国々が慕い求めて来る国であり、最後には神の栄光に輝く国とを到来せる若枝として描かれています。究極的な理想の国家や世界が到来することを、イザヤは語るのです。新約ではこの若枝はキリストと考えられています。



2014年10月12日(日)  神を仲介にして他者に寄り添う信仰
  牧師 坂元 俊郎

 イザヤの預言は大変現代的なテーマを扱っています。超個人主義の時代になった現代に、神を中心にした、「人との関係」を求めているのです。

1)儀礼的になった信仰

 10〜15節までは神の厳しい言葉が響きます。「捧げ物を喜ばない」「捧げ物を持って来るな。」「定められた日の祭りを喜ばない」「祈っても目を覆う」などです。当時神殿での礼拝がいつの間にか形式化してしまっていたのです。形は守れても心からの喜びがない。捧げ物をすることはできても、そこには感謝も喜びも無くなっていたのです。礼拝が自己を忘れ、他者を忘れてしまっていたのです。このことは現代の私たちにも起こります。

2)他者に寄り添う信仰

 17節では「善を行うことを学び、搾取する者を懲らしめ、孤児とやもめを弁護せよ」と語られます。他者への関わりを忘れないようにと語っています。自分のことで一杯になり、他者を忘れ、信仰の祭儀も形式的になっていたイスラエルの民への警告です。神は、当時最も神殿から排除され差別されていた孤児の権利ややもめの立場を、擁護するようにと語ります。当時社会の末端に置かれて、社会的には忘れられているような目立たない存在となった人、神殿のみで礼拝していては見えない人々との、関わりを勧めているのです。

3)罪を清めるということ〜他者を取り戻す〜

 18節では「わたし(神)は罪を清める」と約束します。ここで罪とは単に心の中の罪のみを言っているのではないでしょう。形は守れていても内実が伴わなくなって自分でもそれに気づいていない信仰、また他者を忘れてしまい、差別され、見えなくされている人々に寄り添わない信仰を言っているのです。 他者を忘れた形式的な信仰を、清めると神は言われるのです。それは信仰に他者を取り戻していくということでもあります。大変面倒で身を引いてしまいそうな他者との関係ですが、その関係の中に神ご自身が働いて下さるのです。この神の姿を示す、キリストは他者である我々へと命を捨てたのです。



2014年10月5日(日)  遣わす神
  牧師 坂元 俊郎

 今日から2カ月かけて、イザヤを書を学びます。今日は特に神との出会いを経験したイザヤが、派遣される個所を学びます。

1)神との出会い体験(6:1〜4)

 イザヤは神と出会います。それは神殿での体験でした。天高くにあるみ座、セラフィムが飛び交い、「聖なる歌声」が響き渡り、神の聖を強烈に感得して神の栄光に完全に圧倒される体験でした。 神の聖がイザヤを覆い、 栄光の主の臨在を強く感じさせる体験でした。イザヤは神に直接出会う体験をしたの です。 神殿は揺れ動き、神殿は聖なる栄光で満たされるという経験でした。神に派遣される源は、実にこの聖なる神との出会いにあるのです。

2)自分の汚れた姿を知る体験(6:5〜6)

 聖なる神との出会いは、イザヤに自分の汚れた姿を再発見させます。彼は 「災いだ。わたしは滅ぼされる」、「汚れた唇の者で、汚れた唇の世界に住む者」とその自覚を独白します。彼は、自分がいかに汚れたものであるかを、聖なる主、栄光に満ちた主との出会いで気づかされます。神との出会いは、確かに自己の罪深さに出会うことでもあります。遣わされる者は完全な、信仰的に、道徳的に完成したものではなく、汚れと罪を知るものです。そのようにして思い上がることなく、人の弱さや罪と連帯出来るのです。

3)罪の赦しの体験(6:7)

 神は炭火をイザヤの口に触れさせることによって、唇を清めます。これは 象徴的な行為であり、イザヤに宿る罪が清められ、赦されると言う経験を述べているのです。彼は自分の深い罪責を許される経験をしたのです。神は「あなたの咎は取り去られ、あなたの罪は赦された」と宣言します。イザヤは神の宣言を受けて、遣わされます。それはイザヤが人を赦すのではなく、神御自身が赦しを与えて下さる方であると言う原点を示します。イザヤが罪を 赦すと思い上がることは出来ないのです。イザヤは神と出会い、自分の罪を自覚し、神が赦しの主体であることを告白して、派遣されるのです。