レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2014年9月


2014年9月28日(日)  信仰は賛美へと花開く
  牧師 坂元 俊郎

 今日は、菊地先生と飯沼姉を迎えて、特別の集会を持ちます。教会音楽を通して、 主を伝える喜びを共に学び、歌い、分かち合いたいと思います。

1)神による解放を歌う

 神を賛美することは旧約聖書の中にも多く見られます。迫りくるエジプトの 追跡から解放された「モーセの海の歌」(出エ15章)、主の勝利を祝うミリア ムの歌(出エ15章)、また「デボラの歌」(士師5章)は、その典型と言えるでしょう。 これらの賛美は、神がイスラエルの民を助け、導き、危機の中でも大胆な勝利を 与えて下さり、喜びを与えて下さる方であることが、歌われています。 賛美歌と言う形で聖書の神理解をも伝承していきました。

2)詩篇と賛美(神の政治性と社会性)

  詩篇は賛美の宝庫であると言えます。例えば詩篇113編はその代表例と言えます。 ここではまず「賛美せよ」と命令が下されます。賛美は人生の中で、 まず第一に為されるべきことであり、 我々の信仰の感情的な浮き沈みに関わ らず成すべきものであることが言われます。さらに神とは誰かが語られます。 神は「すべての国を超えて高くいます方」として描かれ、国家や王や天皇や 政治家よりも、さらに高位の方として描かれます。神の政治性が語られます。 また「弱いもの、乏しい者を高く上げる」と神の社会性も歌われています。

3)初代教会の賛美(新約聖書)

 初代教会の人々も又キリストを賛美する人々でした。例えばテモテ3章 では、簡単な教義に曲を付けて歌っていたものが記されています。又使徒書16章には、 パウロとシラスが迫害されて投獄された時に、牢獄で賛美したことが記されています。 賛美には私たちを励まし、奮い立たせる力がありますが、彼らもまた賛美によって力を得ていたのです。 またフィリピ書2章では 宣教の最終的な目的は、「すべての人々がキリストは主であると賛美すること」であると語られています。 人生の最終目的が主を賛美することであるとは、何と喜びに満ちた人生でしょう。主を歌う人生を全うしたいものです。


2014年9月21日(日)  エサウとの再会
  牧師 坂元 俊郎

  ヤコブは20年のラバンのもとでの苦労から逃れました。またエサウの殺意を恐れつつ、遂にエサウと再会するという出来事が起こります。

1)恐れ、慎重なヤコブ(創世記33:1〜3、6、12〜17)

 1〜3節においてヤコブは、非常に慎重にエサウに会う方法を考えています。 側めとその子が先頭、次がレアとその子、最後にラケルとヨセフ。自分は最後 です。6〜7節では「ひれ伏す」が4回も使われ、エサウの殺意をかわそうとし ます。12〜17節では、エサウの2度の申し出を断っています。自分のペースや 生き方を通そうとしているようにも見えます。エサウが自分を殺害しないように、 エサウを刺激しないように行動しているとも言えます。

2)愛するエサウ、和解するヤコブ(創世記33:4〜5、8〜11)

 一方4〜5節ではエサウはヤコブを歓迎し、抱き合い、首を抱えて口づけし、 共に泣いたとあり、二人の麗しい和解の姿があります。8〜11節ではヤコブは エサウに必死に贈り物を贈り、エサウの好意を得ようと努めます。それがどんな心で 為されたのか人によって解釈が違うでしょうが、エサウを愛しエサウと関係を結ぼうと するヤコブがいます。エサウの顔が神のように見えると言う言葉も、皮肉や心にもない 言葉とは思えません。実際にエサウはヤコブの贈り物を受け取り、和解の姿勢を示していると言えるでしょう。

3)矛盾する人間であることを抱えながら

 ヤコブの心にはエサウを恐怖する心とエサウと和解しエサウを愛する心が両方宿っているように見えます。 33章の理解の難しさ、そこから来る和解の「ぎこちなさ」は、このような矛盾したヤコブの 心の姿にあるのかも知れません。 一度こじれた人間関係は、謝罪だけでは済まないことでもあり、赦し 赦されることは、相互の悲しみと痛みが残ったままの出来事です。
和解とは一瞬の出来事ではなく、 互いの思いを知って行く長い旅の始まりなのです。十字架によって罪が赦されたというキリストの愛も、人生の長い旅の中で、一歩一歩その深みと豊かさと大きさがわかって来るのでしょう。



2014年9月14日(日)  顔と顔を合わせて
  牧師 坂元 俊郎

 兄エサウに殺害されるのではないかと恐怖を持ったヤコブ。彼は知恵を尽くして 対応策を整えます。しかしその前に大きな経験をします。

1)腿の関節をはずされる(最も大切な基本をはずされる)

 ヤボク川の岸に一人残されたヤコブは、「その人」と組み打ちし、格闘します。二人 の戦いは激しく、ヤコブは腿のつがいをはずされてしまいます。ヤコブはもはや敗北 寸前であったと思われます。精神的にも肉体的に「腰砕け」の状況になったのです。 ヤコブは自分の基本的な考え方、精神的支柱、自分のプライドさえ失ったことの比 喩と考えることもできます。この事は大変つらい経験であったに違いありません。

2)ヤコブからイスラエルへ(名前を変えられる)

  ヤコブの組み打ちに、終わりがきます。相手はヤコブの名前を「イスラエル」と変 えてしまいます。それは「神と人と戦って勝ったからだ」と言われます。ヤコブとは、 欺く者、狡知にたけた者、策略家等の意味があります。「イスラエル」とは、神が闘わ れる、又は神と共に闘うという、神中心の名前に変えられます。これはヤコブが一層 戦闘的になったことではなく、 愛と慈しみの神がヤコブと共に人生を切り開き、憐れ みによって、人生を導いて下さることを意味します。大きな変化の時を迎えたので す。

3)顔と顔とを合わせて神を見た(ヤコブの神体験)

 ヤコブはこの出来事を、「顔と顔を合わせたのに、なお生きている」と告白していま す。彼にとってこの出来事は、神体験であったのです。旧約聖書では「神の顔を隠さ ないで下さい」、「私は常に神の顔を仰ぎ見る」 「主はモーセと顔を合わせて語られ た」等、「神の顔を求める」大切さを語っています。彼は自分の名前は失いました が、神と共に生きる人生を得たのです。キリスト者の人生は、自分の名を小さくし神 の名を大きくすることです。イエス様は「自分の命を失う者は、私の命を得る」と語っ ています。自分を捨てることによって神を生きる。これが本当の命なのです。


2014年9月7日(日)  策略を用いるヤコブにさえも
  牧師 坂元 俊郎

 ヤコブの物語は、私たちに色々な教訓を残す物語です。ヤコブは工夫や策略を 用いてでも、神の恵みを継承して行きます。

1)工夫や策略を用いるヤコブ

 ヤコブは色々な策略や工夫を凝らす人でした。兄エサウの長子の件を奪う物語、 ぶちやまだらの羊を増やす物語、ラバンを欺いて逃亡する物語などが 聖書には記 されています。彼は狡猾な人間のようにも見えるかも知れません。品行方正な人間 とは見えないヤコブに、神は働いてその恵みを示していくのです。神はその時々に 応じて、神の声をヤコブに聞かせ、神の導きを与えて 助けます。神の言葉は、いつ でも変わらずに、私たちを導き助けます。

2)人から誤解を受ける中でも

 策略や工夫を凝らしながら、ヤコブは家族と家畜を殖やしていったので、多くの 人々から誤解を受け、無理解な言葉を浴びることもありました。31章1節の言葉はそ の代表的なものであるかも知れません。まるでパウロが献金を募った時に、人をだ まして献金を募っていると言われた時のことを思い出させます。「ヤコブはごまかし て、あの富を築きあげた。」と言われ、誤解されます。ヤコブが無理解や誤解や批判 を受けても、神は決してヤコブを見捨てることはありません。神の契約と約束は変わ ることがないのです。

3)変わらない神の約束

 神の言葉は、ヤコブの複雑な性格にもかかわらず、変わりなく与えられ続けます。 創世記では、神は色々な表現で御自身の性格を示しています。「わたしはあなたと 共にいる」「あなたがしたすべての労苦を、わたしはわかっている」「あなたがどこへ 行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る」「わたしは決して見捨てな い。」などがその例です。 ヤコブの苦労は20年に及び、 猛暑の日も極寒の日も働 き、ラバンの約束と心が変化しても、忍耐深くラバンのもとで働いたのでした。このヤ コブを、神は決して見捨てることなく、神の祝福を与え続けました。今もこの事は変 わりません。