レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2014年8月


2014年8月31日(日)  神学校週間を迎えて
  牧師 坂元 俊郎

 今日は神学校週間を迎えています。現代の宣教を考える時に、神学校での教育 は決して欠かすことが出来ない大切なテーマです。

1)何故神学校が必要なのか

 現代の伝道の課題を考える時、神学教育は大変大切なものです。学ばなくても伝 道できるということは、現代ではほとんど不可能です。まず聖書とはどんなものかと 言う基礎知識も大切です。商品知識がないお店は信頼を失うでしょう。接客の態度 が訓練されていないお店はお客様の足は遠のくでしょう。教会も同じです。聖書の知 識、子供から高齢者まで多様な人々を導く為に、学びを充分積むことがとても大切 です。

2)どんなことを学んでいるか

  神学的な分野では聖書神学や教義学や教理史を学び、歴史的な分野では、バプ テスト史、教会史等の分野を学び、教育の分野では教会教育、教育心理、教会学 校論、教育史、発達心理学等を学びます。また管理の分野では、教会管理論、教会 事務の実際等を学び、他に現代牧師論、説教学、礼拝論、宣教論等も学びます。音 楽の分野では礼拝音楽、礼拝学等を学んでいます。その他にも学際的な学びだけ ではなく、教会での実際の体験は大変重要です。教会は信徒、牧師、教会スタッフ を育成する教育の現場なのです。

3)教会員の務め

 私の先輩牧師は「教会こそが最も優れた神学校である。神学校が出来る前から教 会は神学校であった。」と話してくれました。 それは神学校は「教会に仕える学校で ある」ということを示しています。神学とは教会員に仕える学であり、教会員こそが神 学生を育てる重要な役割を担っていることを語っているのです。教会とはキリストの 体のことを意味しますが、信仰とは体性をもったものであることを示します。信仰とは 孤独や一人性には存在せず、人と人の間にあり、関係であることを示しています。 教会員は、神学生を育て、神学生は教会の中で(キリストの体の中で)育っていくので す。


2014年8月24日(日)  自明になった信仰を超えて
  牧師 坂元 俊郎

 今日はエサウとヤコブの祝福の継承について学びます。一般に「祝福をだまし取 るヤコブ」の物語と言われています。再度読み直してみます。

1)兄エサウ(伝統)よりも弟ヤコブ(神の計画)

 イスラエルの伝統に基づくならば、当然一族の継承者は、兄エサウになります。し かしこの物語では、この習慣を破って、弟ヤコブが父イサクの後継ぎとなります。こ れは当時のユダヤ社会に大きなインパクトを残す物語であったでしょう。兄が継承し て当然の物語が、当然ではなくなったのです。神の計画は「兄が弟に仕えるようにな る。」(25:23)ということでした。神の言葉は、当然であることや伝統であることを超え て、起こっていくのです。

2)自明な継承(兄エサウ)よりも巧みな継承(弟ヤコブ)

 弟ヤコブは父イサクから祝福を受けます。兄エサウは激しい怒りと悲しみを父イサ クにぶつけます。父イサクも長子に祝福を与えることが出来なかったことを悔やみま す。しかし一度祝福されたことは、取り消すことができません。  兄エサウと父ヤコブにとっては、不条理に見えた祝福であるように、見えたかも知 れません。しかし、神の祝福は、自明になっている状況からやってきたり、当然やっ てくるものと思えるものではないのです。私たちは人の悪巧み、人からの評判、人か らの様々な批判などを、深く聖霊によって判断し、洞察して生きるのです。

3)父イサクによる継承よりも母リベカによる継承

 父イサクは老いて目がかすみ、兄エサウと弟ヤコブの声を見分けることが出来 ず、肌を触っても子山羊の毛と人間の毛を見分けることも出来ません。老いた夫に 対して、妻リベカは策略を持って対抗します。地位も立場もなかった女性、財産とし て扱われた女性が、祝福の継承について、策略を巡らすのです。この様に女性が祝 福の継承について、発言することは、当時の人々にとって、慣習を破る、反動的な 行動と写ったでしょう。しかし聖書は。神の祝福の獲得に女性が参与することを認め ています。神の祝福は女性であれ、男性であれ、参与することが出来るのです。神 の前には男も女もありません。



2014年8月17日(日)  井戸を掘り続けるイサク
  牧師 坂元 俊郎

 本日は創世記26章から、井戸を掘り続けるイサクの姿と主の関わりを学びます。 この物語は、イサクの労に主が報いて下さる喜びの物語です。

1)繰り返し襲ってくる困難と試練

 人生の試練は、幾度も繰り返し、常に、襲って来ます。イサクは井戸を掘っては埋 められ、掘っては埋められの連続です。水の確保は死活問題であり、同族と動物を 養う大切な水でした。又井戸を掘ること、掘り当てることは困難な仕事であり、多くの 労力を必要とすることでした。井戸の名は、「敵意(シトナ)」であり、「争い(エセク)」と 呼ばれるほどに、困難に満ちたものでした。私たちと同じようにイサクは試練のただ 中にいたのです。

2)「広い場所」と言う名の井戸

 妨害に次ぐ妨害を経て、ついにイサクは争いが起こらない井戸を掘りあてます。そ れはベエル・シェバ(誓いの井戸)という場所でした。そこでやっとイサクは水と平安 とを手に入れることができたのです。彼は試練や困難に忍耐深く対応したのです。 彼はそこを「レホボト(広い場所)」と名付けました。繰り返し行われた「井戸を埋めら れる」という労苦に耐え、新しい井戸を掘りあてたのです。この物語は、私たちも忍 耐深く、事に対応し、生きるべきことを教えているように思えます。

3)神の語りかけを聞き、祭壇を築き、礼拝を行うイサク

 イサクは、この「広い場所(レホボト)」で神の言葉を聞きます。それは、「恐れては ならない。 わたしはあなたと共にいる。 あなたを祝福し、子孫を与える。」という神の 語りかけでした。まさに「神の語りかけを聞く広場」となりました。彼はそこに祭壇を 築き、主の名を呼び求め、礼拝を捧げました。創世記は、まさに祭壇を築く歴史物 語であり、祭壇を築いて、主の名を呼び求める人々の歴史です。私は、族長物語は 苦難と主礼拝の物語であると、深く思わされています。多くの試練が次々と襲って来 るのが人生です。日々祭壇を築き、祈りを捧げ、主の名を呼びたいものです。



2014年8月10日(日)  平和を求め、平和を生きる
  牧師 坂元 俊郎

 本日は平和礼拝を行います。戦後69年を迎え、加害者であり、被害者であった 歴史を振り返り、キリストの平和に生きることを決心しましょう。

1)旧約聖書の示す平和

 聖書は最初から最後まで、平和を追い求める信仰の書であると言えます。創造は 「平和な世界」の創造と言えますし、族長物語は平和を求める物語です。詩篇は、エ ルサレムの平和、家族や友人との間の平和、神との和解と平和を語ります。預言者 たちは、「あなたに信頼するゆえに、平和に。」(イザヤ26:3)と語 ります。平和を意 味する「シャローム」は、国家にも、家族にも、人間関係にも、神と人との間にも、求 められています。

2)キリストご自身が平和:キリストは私たちの平和

 聖書はキリスト御自身が「平和」であることを示しています。キリスト誕生の際には 「平和」が宣言されますし、キリストは「平和の君」と言われています。神の独り子で あるキリストは、神の平和を体現した人です。このキリストは「平和を造り出す人は、 幸いなり」と語り、平和を実行する事を求めました。十字架の 出来事は敵対関係を 超えて、ともに和解する福音と呼ばれているのです。イエス様は、弟子たちには、 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ14:27)と語り ました。

3)波立つ世界のただ中で、平和を生きる

 ガザ地区での戦闘、ウクライナでの民間機撃墜事件、新疆ウイグル地区での激 し い弾圧など戦乱は絶えません。日本でも集団的自衛権容認等による戦争ができる 準備を整えて、一層の抑止力の強化策が進んでいます。家庭内の様々な事件、笹 井氏の自死報道 など、私たちの身の回りの世界でも、多くの混乱や不安な状況が、 波のように押 し寄せて来ています。このような時代の中で、私たちは主の約束する 「平和」 に、しっかりと立つことが求められているのです。不安や混乱や矛盾した世 界のただ中にあって、平和を造り上げ、平和を語り継ぎ、キリストの平和を世にもた らすタフな信仰が求められています。



2014年8月3日(日)  イサクを捧げる
  牧師 坂元 俊郎

 イサク奉献の物語は、多くの神学者や哲学者を魅了してきた物語です。今日は、 創世記22章の物語を読んでいきます。

1)イサクを捧げる(創22:4−10)

 アブラハムは息子イサクを捧げよとの、神の言葉に服従します。イサクを捧げるこ とは、「子孫を空の星のようにする」と言うことを、断念することです。また自分の子 供を殺害することでもあり、人の倫理に反することでもあります。さらに自分の信仰を 全うするために、子供を捧げることは、親の身勝手と受け取られることもあるでしょ う。しかしアブラハムは、神の言葉に忠実に「はい」と答えて、神の言葉に服従し、実 際に神の言葉を実行します。

2)今わかった(創22:12)

 神はアブラハムの行為を見て、「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなた が神を畏れる者であることが今わかった」と語ります。アブラハムは自分の信仰を理 解させ、納得させ、子孫増加の祝福を断念してでも、神の言葉に忠実であろうとする 信仰で、神を納得させたのです。神を畏れるとは、祝福を断念して、自分の子供を 主に捧げると言う行動を含む事でもあったのです。そのようにして、アブラハムは神 の前に、自分の信仰を証明したのです。アブラハムは神を理解させきることができ ました。

3)わたしは自らにかけて誓う(創22:16)

 このようなアブラハムの信仰を体験した神は、「わたしは自らにかけて誓う。あなた を祝福する」と語ります。これは神御自身による再度の祝福の確認の言葉です。「自 らにかけて誓う」とは、神の絶対的な約束成就の宣言です。「あなたを祝福する」と言 う言い方は旧約聖書に327回使用され、しかも、強意の意味であるピエル形と言う語 法が、必ず使われている言い方です。神の最後的な決断、神の意志の自己貫徹、 神は必ず約束を成就すると言う強い意味を含むのです。子供イサクを祭壇に捧げき るアブラハムの信仰は、今も私たちの信仰の意味を深く問いかけるものであると、思 わされます。