レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

今週のレター・ヘッド2014年3月



2014年3月30日(日)  受難節(レント)を迎えて
  牧師 坂元 俊郎

 教会暦ではレント(受難節)の時期を迎えています。イースターまでの時期をイエス 様の十字架と苦しみを思いつつ過ごす時期です。

1)論を立てること、沈黙すること

 「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」(マルコ14:61)、「イエスは何もお答え にならなかったので、ピラトは不思議に思った」(同15:5)イエス様は人々の不利な証 言、食い違う証言にもかかわらず沈黙したままです。黙秘権の実行でしょうか。諦め てしまったのでしょうか。論を建て反証することは現代の必携であり、論駁することは 現代人の特徴であり、論破は現代の誰もが為すべき権利なのです。論争に勝つこと は正統の証しでもあります。論争に敗れることは人生からの退場を示すことでもあり ます。しかしキリストは沈黙。

2)個人イエスを圧殺する国家と軍

 マルコ15章には多くの軍隊組織名が羅列されます。総督官邸(プライトーリオン)、 総督(ヘゲモーン)、兵士(ストティオーテス)、全部隊(ホーレ へ スぺイラ)、百人隊長 (センツリオーン)などです。彼らは「剣や棒を持って捕えに来た」(14:48)と記されてい ます。高級な官吏とは言えませんが彼らの背後には、広大なローマ軍が存在し、 ロ ーマ皇帝による軍制度の下級軍人たちであったのです。 キリストはこのような圧倒 的な政治的暴力装置の中で殺されていったのです。 イエス様の死は信教の自由も なく、暴力をもって革命を起こすことを望んだゼーロータイ(熱心党)でもありませんで した。イエス様は圧殺されます。

3)楽しい笑い声の中で

  「祭司長たちも律法学者と一緒になって代わる代わるイエスを侮辱して言った」(マ ルコ15:31)とあります。 この侮辱する(エムパイゾー)は「こどものように浮かれて騒 ぐ」という意味があります。無力な者をいじめるように、彼らはキリストを楽しく笑いな がら侮辱したのです。からかいねた、遊びネタとしてキリストを殺害しました。力関係 において越えられない格差を感じさせた時に人は嘲弄するものです。暴力における 笑いは現代でも起きています。




2014年3月23日(日)  乗り換えの時期に
  牧師 坂元 俊郎

 進級、卒業、入学、就職、退職、職場の配置転換など3月から4月にかけては移り 変わる時期を迎えます。この時期について書いてみましょう。

1)変化の時期

 上にも書きましたが3月から4月にかけては変化の時期です。ある人はこの時期を トランジッション(乗換え)の時期と呼んでいます。  つまり進級して新しい関係や学習 が始まります。卒業して新しい職場や学校に移ります。また新しい場に就職が決ま り、新しい人間関係や環境に入ります。また同じ職場でも配置転換で新しい仕事を 習得すること等も期待されます。退職して新しい職場に行く人、家庭に入る人なども います。この時期は変化が激しい時期ですので、心理的にも大きな負担があり、乗 り換えが挫折にも、喜びにも変化していくのです。

2)新しい環境に適合する

 この時期は1つは別れの時期でもあります。今までの関係に別れを告げていかな ければなりません。幼稚園や保育園に初めて通う子供は家庭の中から新しい別の 世界へ入って行きますので、時には泣いても自立の道を歩まなければなりません。 新しい人間関係へ適合していくことが望まれます。安定した今までの関係から引き 離されていくのです。このような経験はわたしたちにとって不安を引き起こす時期で もあります。時には適応できなかったり、混乱したりしますし、逃げたり、こもってしま ったり、拒否することもあります。抑鬱や絶望すら感じることもあるのです。

3)インマヌエルの主

  聖書の神は「インマヌエル」の神と言われます。アブラハム、イサク、ヤコブの時 代、出エジプトの時代でも、ダビデやヨナタンの時代でもあらゆる時代に共に人間と 共におられるのです。主は変化する時代の中で私たちと共におられて我々を見守 り、我々を助け出し、我々を慰め、我々を励まして立たせ、どこであっても我々の導 き手です。このトランジッションの時期にも主はインマヌエルなのです。心を静かにし て安心してこの節目の時期を移って行きましょう。




2014年3月16日(日)  被災地を歩くキリスト〜震災3年を迎えて〜
  牧師 坂元 俊郎

 東日本大震災が起こって3年目を迎えた。マスコミでも震災後の「復興」やこれか らの課題に多くの紙面を割いた。被災地にキリストが行かれたら?

1)キリストが被災地を歩く:東京五輪と被災地

 「約10万人がプレハブ仮設住宅にいる事実が、もうニュースにならない。被災地の 首長らが陳情に行った復興庁で、 東京五輪のポスターに唖然とした」(3月11日朝日 新聞朝刊一面)とあった。被災地は五輪の陰に忘れ去られようとしている。国威の発 揚は必ずそこに犠牲や捨て置かれるものがある。マルコによる福音書には「地の 民」 と言われる地を這うようにして生きる人々の姿が描かれている。今キリストが被 災地を歩いて行かれたらどんな思いだろうか。主はどんな言葉をかけるだろう。イエ ス様の祈りの言葉を聞いてみたい。

2)キリストが被災地を歩く:避難生活者26万人

 「警察庁によると震災による死者は1万5884人、行方不明者2633名、震災関連死 は3県で2973人、 避難者数26万7419名」(同上新聞)と報告されている。この数字か ら私たちはどんなことを連想できるだろうか。この地にある悲しみや痛みを連想でき るだろうか。自分には何ができるか連想できるだろうか。行動に移せることはどんな ことか連想できるだろうか。小さなことしか出来ないと悲観するだろうか。キリストは 家族を失った人にどんな言葉をかけるだろうか。キリストは家族が見つからない人と どう生きるだろうか。避難生活を送る人にどんな思いを寄せるだろうか?キリストの 生き方を学んでみたい。

3)キリストが被災地を歩く:原発事故によって避難して

津波で父を失った女性は語る。「原発事故による避難命令が出されたため、すぐ そこにいるかもしれない大切な家族を残して避難しなければならなかったあの悔しさ を今でも忘れられない。」 (12日朝日新聞朝刊1面)。「帰還困難区域は田んぼが赤 茶け、立ち枯れの雑草で覆われ、汚染土の山があちこちに積まれている。」(同上新 聞)キリストがこの高放射線量の区域を歩かれたら何と思い、何と語るだろう。共に キリストの胸の内と祈りを推察してみよう。




2014年3月9日(日)  家庭、職場、様々な集まり、教会
  牧師 坂元 俊郎

 私たちには職場、家庭、学びの場所(学校や塾等)などの色々な現場があります。 これらの現場と教会という現場について考えてみましょう。

1)病んでいる人々に囲まれて:イエス様の現場

 マルコによる福音書を学んでいます。この福音書からイエス様の現場が垣間見え ます。重い皮膚病の人、中風の人、手の萎えた人、12年病に苦しんでいる女性、耳 が聞こえず言葉を話せない2重苦の人、目が見えない人、汚れた霊に憑かれた子ど も、盲人バルテマイなど多くの心と体を病んだ人々に囲まれてイエス様は生活をして いたことが分かります。当時このような人々は「地の民」と呼ばれ周辺に置かれた 人々であり、「罪人」と呼ばれる人々でした。イエス様はこのような人々と共に生活を なさっていたのです。

2)人々がイエス様のもとへ連れて来る:イエス様のもとへ

 人々は上記のような人々をイエス様のもとへ連れて来たことが数か所に記されて います。「どこでもイエスがおられると聞けばそこへ病人を床に乗せて運び始めた」 「人々は耳が聞こえず舌のまわらない人を連れて来て、その上に手を置いて下さる ようにと願った。」「人々は息子をイエスのところに連れて来た」など多くの個所に見 られます。人々は病んでいる人や痛んでいる人を見捨てずにイエス様の所へ連れて いくのです。貧しい底辺の人々がどうにかして良くなって欲しいという思いが溢れてい るように思います。私たちの社会や現実はどうでしょうか?奇跡は彼らの手助けなし では起こらなかったと思います。

3)奇跡を起こすイエス様:その内実

 イエス様は指を両耳に入れ舌に触れて奇跡を起こします。イエス様は2重苦に生き ている人に触れています。「群衆がかわいそうだ。」「飼い主のいない羊のような有様 を深く憐れみ」「安心して行きなさい。元気に暮らしなさい。」など深い共感と憐れみ の心に満ちています。また「彼は汚れた霊に取りつかれている」と揶揄されるほどに 「汚れた霊につかれた人々」と同じ立場に身を置かれた事が分かります。私たちの 人生の立ち位置はどうでしょうか?




2014年3月2日(日)  執事就任式について
  牧師 坂元 俊郎

 4月には執事の就任式を執り行います。私たちの教会つまりキリストの体である教 会における就任式の意味について書いてみましょう。

1)キリストとの共働

 執事はキリストの体を形成していく努めと責任を負います。教会を形成するとはキ リストの体を教会員や同信の友と共に形成していくことです。その為にはキリストの 御心を求め、神の計画を求め、聖霊の示しを求めることが大切です。そのために祈 祷会に出席して祈りを分かち合う、聖書を読んで今この教会の現場に何が必要かを 祈り求めることも大切です。執事は神の僕ですから三位一体の御心を深く悟る必要 があるように思います。主に何を果たせば良いのかを静かに祈り求め、与えられた 色々な限界の中でキリストと共働していきたいと思います。

2)教会員・求道者・新来者・牧師との共働

 執事はキリストとの共働者であると同時に、会衆や人々の共働者でもあります。会 衆は多様な個性を持ち、多様な家庭感を持ち、多様な人格的な特徴を持ちます。執 事はこの多様さを受容し、何が適切な牧会や伝道方策であるかを冷静に見極めつ つ忍耐深く主の働きを行うことが求められます。必要ならば厳しい出会いも求められ ますし、万人に愛される良い執事という幻想は捨てなければならない決断も求めら れます。牧師や主事や教会事務の方々のビジョンや牧会スタイルを見極めて成熟し た判断をしながら教会形成を行うことが求められます。

3)就任式の意味〜関係回避型社会の中で〜

 執事就任式は神と会衆の前で共同して執事の働きを担っていくことを約束し確認 する式です。会衆任せ、執事任せの働きではなく、相互に共同してその任を果たす ことを確認するのです。現代は「回避性人格障害」が多くなった時代と言われます。 面倒な事には関わらない、人から責任を突っ込まれるような立場は避ける、直接人 と出会うことを避けてパソコンで済ませる、そのような閉じ込もり型、責任回避型人 間が増えていると言われます。そのような世界の中で三位一体の神に出会い、人と 神とに責任を果たしていく執事を目指したいと思います。