レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

2013年10月のレター・ヘッド



2013年10月27日(日)  時間・空間・祈り
  牧師 坂元 俊郎


 今日は聖書教育で時、時間、永遠などについて学びます。そこで「時間」 とはどんなものであるかについて、聖書から聞いてみましょう。


1)時の創造者は神[ヤハウェ]、時は神[ヤハウェ]の被造物

 旧約聖書の天地創造の物語で神は混沌から天地を創造します。と同時に朝 を創造し夜を創造し、1日を創造します。これは時の流れを創造したことを も意味します。又天地創造は神が空間をも創造したことを示しています。神 は人や自然のみではなく空間(スペイス)をも創造した方です。私たち被造 物である人間は神の時間(タイム)と神の空間(スペイス)の中で生きるの です。更に神は創造した時間と空間について愛と責任を持って関係してくだ さるのです。この時間と空間への最大の神の関心は「神の御子イエス」を時 間と空間に誕生させたことです。

2)クロノス[一定の時間の長さ]とカイロス[点として時間]

 聖書は神の時間を二つの言葉で表します。1つはクロノスである。一定の 長さを持った時間です。例えば3時から5時までと言う時間です。このクロ ノスは神が関わリを持つ時間です。時「間」の中にも神は働きます。もう一 つはカイロス。点としての時間です。赤ちゃんが3時40分に生まれました と言うその瞬間の時間です。この様な「時」を聖書は「時が満ちる」と言う 表現を用います。それは神ご自身の持つ命や目的や愛が成就される時を示し ています。

3)時を良く用いなさい[エフェ5:16]

 私たちは時を「自分のために有効に」使用し、断片的に「使いこなす」こ とのみに集中します。しかし「時」は主のものです。ですから有効に使う際 に「神のために用いること」が大切です。神の御旨の時として用いることが 大切なのです。この意味で「時」は神へのスチュワードシップの最も大切な ものなのです。その為には御心を求めて祈り、「時」が神の御旨で満たされ るように祈り求めるのです。「時を良く用いなさい」とは神の創造物である 時が神のものとして用いられることを求めているのです。日々の祈りの中で 神の御心を求め、神の被造物である時間が神の御心で充満するように働くの です。祈りと「時間」は直結しています。




2013年10月20日(日)  「聖書の余韻」を味わう
牧師 坂元 俊郎

 日本バプテスト連盟主催の教会学校奉仕者研修会が14日(月)行われま した。本当に素晴らしい会であったと想います。豊かな出会いの一端を書い てみます。


1)「聖書の余韻」を味わう〜開会礼拝から〜

 この言葉は開会礼拝での森牧師(高崎教会)のメッセージの中での言葉で す。聖書は字句を正確に学ぶことはその一歩目です。しかし先生は聖書の行 間を読むことの豊かさ、聖書を学んだあとで祈りながらその聖書が語るメッ セージを思い巡らし、聖書の言葉が波紋のように広がって行く余韻を充分味 わう必要があると語られました。分級で取り上げられた箇所を学び、自分の 人生を考え、教会を考え、一週間のさまざまな出来事を思い返しつつ、じっ くりと聖書を味わうのです。聖書を読み、聖書の豊かさに触れ、我々の人格 に染み込むまで味わうのです。

2)心を開ける分級にしたい〜模擬分級の時間〜

 模擬分級の時間も楽しかった。富田牧師は初めて教会に来た新来者になり きりの演技で質問し、秋山牧師はキリスト教主義の学校から来た高校生の演 技をしてくれました。今回分級のやり方で学んだことは、心を開ける分級で ありたいと思ったことです。聖書の知識上の学びも大切ですが分級に参加し た方々が心を開いて自分の悩みを語り、心を割って暗い悩みでも話せる分級 でありたいと思いました。イエス様や聖霊を中心にした心の出会いが起こる 分級が大切だと思いました。

3)育っているなあ、若い者たち!〜分科会の時間に〜

 分科会は青年たちの分科会に参加しました。久しぶりに青年たちと交わっ て本当に良かったです。青年が少ない、青年にも伝道を、後継者を育てる、 などの興味もあって参加しました。7名の青年が教会学校での奉仕の悩みや 迷いなどを分かち合いました。それぞれ分級や教会生活で忙しさと戦いなが ら生活していました。青梅教会、JOY教会、大井教会、相模中央教会、常盤台 教会等の青年でしたが大変良い体験を積んでいるように思いました。教会で 青年が育つことは人生の本当に本質的なものを学びつつ生きているのだとい うことを再確認出来ました。人間関係、協力の仕方、依存と自立など、彼ら は多くを学んでいました。



2013年10月13日(日)  報復の連鎖とイエス様の十字架
牧師 坂元 俊郎


 詩篇137篇の後半はあたかも「報復の連鎖」である。復讐の連鎖とイエ ス様の十字架の出来事はどのような関係にあるのだろうか?


1)報復の連鎖:怒りの罪の連鎖

 エステル記を学んだがエステル自身も激しい報復の殺戮を繰り返してい る。彼女の美貌に焦点が当たるがそれは決して中心ではない。むしろその報 復の激しさに驚く。今回の詩篇もその最後は報復である。詩篇には報復の祈 りが多数見られる。聖書教育もこの点を取り上げ「人への怒りはどのような 方向に解消すべきか」と問いかけている。報復の連鎖は現代においても「倍 返し」「ストーカーによる殺害」世界の様々な地域で起こる「地域紛争」の 課題でもある。「やられたら、やり返す」という人間の怒りは、どこでも起 こりうる人間の罪の問題である。

2)イエス様の生き方

 イエス様の十字架の物語はイエス様を暴力の対象とした物語である。不当 な裁判であり、十字架を負い、鞭打たれ、つばをかけられ、物笑いとなり、 磔刑にされる物語である。イエス様はこれらの不条理極まりない処刑に対し 全く無暴力であり、復讐することはない。人の怒りを見に受けていくのみで ある。人々の怒りや嘲りをありのままに受けて、我々のように報復や自分を 嘲るものを呪うことはないのである。彼は抵抗することもない。「人の罪」 を受けるのである。

3)報復の連鎖の終わり

 イエス様の生き方は報復を身に受ける、自らは決して報復しないという、 報復の連鎖の終わりということを示していないだろうか。彼は自ら報復の道 を歩むことはなかったのである。それが「神の子」の生き方の啓示であっ た。そして神はこの生き方を良しとされ、復活の力をイエス様に与え、イエ ス様は復活したのである。報復の連鎖の終わりのイエス様の出来事は、復活 という新しい生き方へと変容させて行くことである。この道は我々信仰者の 歩むべき道として示されているのではないだろうか。イエス様を主とするこ と、イエス様と共に生きること、インマヌエルと告白することは報復の道を 歩まない選びである。



2013年10月 6日(日)  二つの礼典:主の晩餐式とバプテスマ
  牧師 坂元 俊郎

  本日は主の晩餐式を執り行います。晩餐式はどんな意味を含むのでしょ うか。今日はその意味を書いてみます。

1)「イエス・キリストの死へ」バプテスマ

 パウロは「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」(原 文は「イエス・キリストへとバプテスマを受けた」)と語っています。キリ ストと一体となるためにバプテスマを受けたと言っています。 さらに続けて 「またその死にあずかるためにバプテスマを受けた。」(原文は「彼の死へ とバプテスマを受けた」)と書いています。イエス様の十字架の死と共に死 に、イエス様が十字架で死んだ姿と同じ姿となることが語られているように 思います。キリスト者になるとはキリストの姿が自分の生と成るように生き ることを示しているのです。

2)バプテスマと主の晩餐式の関連性

 本日は主の晩餐式で「主の体と血と」を分け合います。それはキリストが 私たちの罪のために死んで下さったことを覚えると同時に、自らもキリスト との一体を生きる、すなわち「彼の死へとバプテスマされる」ことを意味しま す。「私の為の死」とは「私が十字架にあって死ぬ」という能動的な献身 をも含んでいる事なのです。バプテスマと主の晩餐が連続することが大切な のです。教会はキリストの体とよく言われますが、このような礼典を通して 共にキリストの体に成って行くのです。

3)キリストの身体になること

 教会はキリストの死へとバプテスマされた者によって形成される十字架の 共同体です。バプテスマを受けて一個人のキリスト者になるのではなく、キ リストの体へとバプテスマされ、単に主の晩餐において一個人のキリスト者 となるのではなくキリストの体となるのです。バプテスマも主の晩餐式も 「一個人の出来事」ではなく、「からだ」の出来事なのです。ある神学者は このことを「クリスチャンにるとはキリストの身体に参加すること」と名付 けています。私たちはキリスト者という個人に生きることよりも、キリスト の体という身体性(共同性・群れ性)に生きることが先にあることが大切で す。「教会は個人に先立ち」ます。