レター・ヘッド  : 湘南台バプテスト教会

2013年11月のレター・ヘッド



2013年11月24日(日)  収穫感謝祭が問いかけるもの
牧師 坂元 俊郎

 今日は収穫感謝祭を迎えています。1621年に始まったこの感謝祭の現代的な意味について書いてみましょう。

1)飢餓と飢えの中での体験〜世界の飢餓を覚える〜

 1620年にイギリスからアメリカに渡ったピルグリムファーザーズ(清 教徒)は厳しい寒さに直面し食糧難と飢餓の状態を体験しなければなり ませんでした。当時多く餓死者を出したと言われています。イギリス本 土からもトウモロコシや野菜の種を持参しましたが新天新地の土壌に合 わなかったと言われています。飢餓は現在も世界に広がる大きな課題の 一つです。シリアの難民の食糧支援、フィリピンでの台風被害による食 糧難などアジアやアフリカ人々の食料難は続いています。神様が創造し た人々が基本的生存を脅かされているのです。この事を覚えたいと思い ます。

2)ネイティブ・アメリカンとの出会い〜異文化社会との出会い〜

 アメリカに住むネイティブ・アメリカンはヨーロッパ人の上陸以来彼 らが持ち込んだ病気の為に多くのネイティブの人々が亡くなったと言わ れます。言語や習慣や宗教や家族のありかたの違い、武器の違いなどは 対立や支配関係の歴史へと変わって行きました。私たちの生活でも外国 籍の大人や子どもたちが一緒に住む社会になっています。「異文化共 生」は私たちの社会のテーマにもなり、最近では「ヘイトスピーチ」の 問題にもなっています。私たちの信仰観はどうでしょうか?

3)マイノリティ(少数者)の文化を大切に

 ネイティブ・アメリカンの歴史家たちはこの収穫感謝祭の日を単に喜 びの日とは考えない人もいます。移民してきたヨーロッパ人は土地を奪 い、言語や独特の文化を奪い、知識や宗教も奪っていきました。その様 な歴史を踏まえて収穫感謝祭の翌週の金曜日を「アメリカインディアン 遺産記念日」として守り、アメリカ先住民の歴史、文化、宗教、虐殺の 歴史を振り返る日として様々な行事を行っています。政治や経済の流れ は人間自身を葬り去り、無きが如き事柄として大衆にはに見えない部分 へと押し込んでいきます。ナチスのユダヤ人の強制収容所はその典型で す。多様な人々が共に平等の思想や価値を共に共有する社会であって欲 しいと思います。




2013年11月17日(日)  20周年『記念』ということ
牧師 坂元 俊郎

 今日はサウンド・オブ・ハープの方々をお迎えしました。伝道開始 20周年「記念」の行事の一環として行われます。「記念」とはどん な意味を含むのでしょう。

1)「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(ルカ22:19)

 この言葉はイエス様の最後の晩餐の言葉です。イエス様はいつでもイ エス様ご自身のことを思い起こすように、また十字架の出来事をいつで も思い起こすようにと、晩餐の中で語られました。この言葉は第1コリ ント11章25節の中でも用いられています。弟子やパウロにとって大切な イエス様の言葉の1つであったと思われます。私たち教会が「記念」を 語る時にイエス様の「最後の晩餐」の出来事を思い語りたいと思わされ ます。教会の20年の歴史の「軸」は、主の晩餐とバプテスマという中 心に展開されて来たことを思い起こしたいと考えます。

2)「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」 (マタイ26:13)

 この言葉は、あの香油を捧げた貧しい女の行為の中でイエス様が語ら れた言葉です。香油を捧げる行為に周囲の人々は憤慨し、貧しい人々に 捧げることができたと怒りをあらわにします。この女性は周囲の人々の 誤解や無理解を超えて、イエス様へ香油を注ぐ決心をしたのです。イエ ス様の死への準備であったのかも知れません。教会の20年の伝道活動 はイエス様の死を語り伝え、十字架の出来事が福音の根源であることを 示す「記念の活動」であることを確認したいと思います。

3)「それ(糸杉とミルトス)は、主に対する記念となる」 (イザヤ55:13)

 イザヤ55章はバビロン捕囚からの開放を神の言葉が果たしていくと いう喜びの預言が語られています。バビロン捕囚という苦難から解放さ れ、救われて行くという希望の章です。糸杉とミルトスは神の導きや助 けやたどり着いて行く沃地の象徴、喜びの象徴です。「山と丘は・・・ 歓声を上げる」とも記されおり解放の喜びは、創造物が喜び歌うほど大 きな喜びあると語るのです。糸杉とミルトスは主の開放を思いこさせる 記念樹のようなものとなると言うのです。大切なことは私たちの教会の 記念行事が「主に対する記念」となり、記念業事に参加した人々が主を 思い起こすものであるということです。「記念」で主の姿を見るので す。




2013年11月10日(日)  教会の約束:主にあって子供たちを育てる
  牧師 坂元 俊郎

 本日は幼児祝福式を行います。教会に来る子供たちは「対象者」では なく、「主体者」です。子供たちに「仕える」ことが私たち教会の使命 です。

1)「神よりあずかった子供たちを」

 「教会の約束」は20年間朗読され続けて来ました。このことはこの 約束が教会の大切な基礎であり、この約束に沿って教会員が結び合わさ る大切な土台であることを示しています。「教会の約束」は「神より預か った子供たち」と子供子たちのことを規定しています。教会員の子供の みでなくすべての子供が神よりの賜物、神から預かっているもの、大人 のものではなく神の被造物であることを示しています。この世の価値観 ではなく聖書の価値観で育て、人の思いではなく、神の思いの中で育て ていくことを約束しているのです。

2)「神のみ旨に沿うように教え育て」

 「教会の約束」は、子供たちを「神のみ旨に沿うようそに教え育てる」 という約束を結びます。これはこの世的な教え方はしないという決断を 含むものです。単に理想はそうだけれど、なかなか出来ないことを約束 しているのではないのです。この言葉の中には聖書を生き方の土台にし ていくのだという決意が含まれています。どのような時代、どのような 環境、どのような境遇であってもこの世の価値観に妥協することなく、 主を主とする告白が含まれた教育の理念なのです。

3)「個人的な祈りと、家庭の礼拝をつとめ」

 「神のみ旨に沿うように教え育てる」の前文に「個人的な祈りと、家 庭の礼拝をつとめる」の一文があることはとても大切です。教会で子ど もたちが育つことは大変大切です。しかし親が家庭で子供たちのために 祈ること、家庭礼拝を行い共に祈りを合わせることは又特に大切です。 子供たちは親の心を見抜く力を持っていますので、安易な信仰は子供の 方が見抜いてしまうでしょう。言い訳がましい信仰や矛盾を抱えた信仰 者である我々がありのまま愛されていることを理解させる誠実な言葉や 論理がなければ子供たちは納得しないように思います。私たちは家族と 神様の取りなし手として、その使命を与えられています。




2013年11月 3日(日)  ヨブの苦しみと痛み
牧師 坂元 俊郎

 ヨブ記は聖書の中でも理解するのが難しいものの一つと言えます。ヨ ブの葛藤や苦しみについて書いてみましょう。

1)信仰に満ちたヨブ

 ヨブは多くの財産や家畜を飼うために一所懸命働き、家族が信仰的に 罪を犯さないように心を使い(1章)、旅人をもてなし、畑を酷使する ことなく、偶像礼拝を犯すことなく、自分の罪を隠しだてすることな く、召使へも充分な心使いを示し、みなしごや貧しい人々にも親切に してきました(31章)。彼は友人たちにも自分の信仰を正確に主張す る人でありました。ヨブは神様から試練を受けるのですが、自分が多く の試練を受ける理由を自分の中に発見することができないことを告白し ます。しかし多くの試練を経験したヨブは深い悲しみを訴えます。

2)因果応報のアドバイスとヨブの信仰

 3人の友人たちはこのようなヨブに忠告をします。彼らの論点は「自 分の信仰の忠実さを主張し過ぎる。あなた自身にも罪や落ち度があった のではないか。自分の罪を認め、自分の罪を悔い改めよ」というもので した。悪いことをしたからその咎めや罰として苦しみが起こったのだと 因果応報説をもってヨブを説きふせようとします。しかしヨブは自分の 心の痛みや喪失の悲しみを訴えながらもそのようなアドバイスは自分の 信仰や傷を癒すことはないと告白します。

3)ヨブの痛みに届く言葉を探す

 私はこの物語を読んで、神の前での罪や神の前での罪責を感じる以上 に、人の喪失体験は時として深いものではないかと思います。罪なしと は言わないまでも、誠実に信仰生活をしてきた者が理由をいくら考えて も理解できない喪失の体験は罪責感や罪意識を超えて深いものとして経 験されることがあるのです。罪意識より家族や財産の言われのない喪失 感が遥かに深いものして経験される時に、「自分の罪や自分にも落ち度 があったことを認めよ」という正当で真っ当なアドバイスは一層深い罪 責感を与え、苦しみに苦しみを重ねることになるのです。ヨブ記は私た ちがどんな伝道をしているかを問いかける書でもあるように思います。